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かわえうた

スピリットというか、生きた証というか。それは“大切な人がいるからこそ”生まれる気持ちなんですよね minako kawae

春待月夜を待つ夕暮れ 

carney

レオン・ラッセルが日曜日(11月13日)、米テネシー州ナッシュビルの自宅で亡くなった。睡眠中に息を引き取ったと伝えられている。74歳だった。
ラッセルはこの夏、心臓発作を起こして以来、休養していたが、1月にライブ活動を再開する予定だった。
10代半ばからクラブで演奏し始めたラッセルは、ゴスペル、ブルース、カントリーを融合した独自の南部ロック・ミュージックを確立し70年代にブレイク。その歌声や演奏スタイルは多くのミュージシャンに影響を与え、“ミュージシャンのミュージシャン”とも呼ばれた。2011年にロックの殿堂入りを果たした。

<作品>
Leon Russell:1970
Leon Russell and the Shelter People:1971
Carney:1972
Leon Live:1973
Hank Wilson's Back:1973
Looking Back:1973
Stop All That Jazz:1974
Will O' the Wisp:1975
Americana:1978
Life and Love:1979
One for the Road:1979 (with Willie Nelson)
The Live Album:1981
Hank Wilson:Vol. 2:1984
Solid State:1984
Anything Can Happen:1992
Crazy Love:1992
Hank Wilson:Vol. 3:Legend in My Time, 1998


■「レオン・ラッセルを讃えて──キース・カフーン」より(2010-10-16:from BARKS)

1.「ソング・フォー・ユー」
後悔、自責の念、不滅の愛を歌った完璧なまでに美しい曲。これまでに、多数の日本人アーティストをはじめ、100人以上のアーティストにレコーディングされている。特に有名なのは、レイ・チャールズ、シェール、ドニー・ハサウェイ、ホイットニー・ヒューストン、シンプリー・レッド、カーペンターズ、シャーリー・ホーン、タック&パティ、カーメン・マクレー、マイケル・バブルによるカバー・バージョン。日本ではアン・ルイスや鈴木雅之、綾戸智恵、森山良子、小林明子、大黒摩季ら多数。それでもなお、筆者はレオンのオリジナル・バージョンが一番だと思っている。

2.「ディス・マスカレード」
レオンの曲を多数レコーディングしてきたジョージ・ベンソンが、このロマンティックなバラードを歌ってヒットに。1976年にはグラミー賞を受賞した。それ以来、ポップやジャズ・バージョンで何度もレコーディングされてきた曲だ。

3.「スーパースター」
レオンがよく一緒に仕事をしたデラニー・ブラムレットと書いた曲。“スーパースター”という言葉が一切使われていない、カーペンターズによるカバー・バージョンが最も有名だ。テレビでベティ・ミドラーが歌うのを見てこの曲を知ったリーチャード・カーペンターは、即座にこの曲のレコーディングを実行。1971年に世界的なヒット曲となった。これまでに、ルーサー・ヴァンドロス、デヴィッド・サンボーン、エルキー・ブルックス、キアヌ・リーヴスのバンド、ドッグスター、モーテルズ、クリッシー・ハインドらにカバーされている。中でも、ソニック・ユースがカーペンターズのトリビュート・アルバムのためにカバーしたバージョンは最高だ。

4.マッド・ドッグスとイングッシュマン
レオンの書いた曲「デルタ・レディ」がヒットしたジョー・コッカーは、レオンにツアー・バンドの編成を依頼。その結果、11ピースのモンスター級バンドが誕生した。バンドには、後にデレク・アンド・ザ・ドミノズで活躍するカール・レイドルとジム・ゴードン、ローリング・ストーンズのレコーディングに多数参加したエース級セッション・ミュージシャンのボビー・キーズとジム・プライス、後にソロ・シンガーとしてスターになるバッキング・シンガーのリター・クーリッジなどがいた。2枚組LPで発売されたこのツアーのライヴ・アルバムは、2位を獲得しミリオン・セラーを記録。コッカーのキャリアで最も成功をおさめた作品の1つとなった。

5.シェルター・レコード
1976年、レオンとプロデューサーのデニー・コーデルはシェルター・レコードを共同設立した。2人のパートナー関係は7年しか続かなかったが、その後もレーベルは、オクラホマ出身でレオンがティーンエイジャーだった頃にバンドを一緒にやっていたJ.J.ケール、ファンクの象徴ギャップ・バンド、そしてヒット曲「アイム・オン・ファイヤー」で知られるドワイト・トゥイリーら優れたアーティストを輩出。トム・ペティを“発掘”し、活動休止状態にあったブルース・ギタリストのフレディー・キングを復活させたことでも知られる。

6.「ミー・アンド・ベイビー・ジェイン」
麻薬に溺れて死んでしまった元ガールフレンドの葬式に行く様を描いた、胸が張り裂けるようなバラード。麻薬で愛する人を失った人なら誰でも心を揺さぶられる歌詞だ。ホセ・フェリシアーノ、ニーナ・シモンらがカバー・バージョンをレコーディンしている。この曲は、1972年発表のレオンのベストセラー・アルバム『カーニー』に収録されている。このアルバムには、彼のキャリアの中で最もチャート上位にランクインしたシングル「タイトロープ」など多数の名曲が収録されている。

7.バングラデシュのためのコンサート
1971年8月1日、史上初のロック主体の大規模なチャリティ・コンサートがニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催された。ジョージ・ハリソンがオーガナイザーを務め、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、ビリー・プレストン、リンゴ・スターら大物達が多く出演した。その数々の秀逸なパフォーマンスの中でも、レオン・ラッセルが披露した「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のゴスペル風バージョンと、コースターのヒット曲「ヤングブラッド」のエネルギー溢れるバージョン、そしてジョージ・ハリソンと共演した「ビウェアー・オブ・ダークネス」が最高の評価を受けた。「ヤングブラッド」はビートルズがキャヴァン・クラブに出演していた頃によく演奏した曲でもある。

8.サイドマン
ソロ・アーティストとして優れた実績を築いてきたレオンだが、サイドマンとしても偉業を成している。14歳の若さでロニー・ホーキンズのバックで演奏し始めて間もなく、ワイルドなジェリー・リー・ルイスのツアーに参加。デラニー&ボニーとのツアーも経験したが、ジョー・コッカーとのツアーが最も有名だ。

9.天才ソングライター
レオン・ラッセルは自身のソロ・アルバムでも素晴らしい曲を多数書いているが、ゲリー・ルイスや、プレイボーイズと「エヴリイバディ・ラブス・ア・クラウン」や「シーズ・ジャスト・マイ・スタイル」を共作した。その他には、エリック・クラップトンがレコーディングした「ブルース・パワー」、B.B.キングとジミー・ペイジがレコーディングした「ハミングバード」、フレディー・キング、ボビー・ブルー・ブランド、スティーヴ・マリオット、ホワイトスネイクの「ヘルプ・ミー・スルー・ザ・デイ」も彼が書いた曲である。

10.スーパースター・セッションマン
音楽活動を始めたばかりの頃、LAに移住したレオンは、ザ・レッキング・クルーという、当時業界で最も指名率の高かったセッションマン・グループに加入、メンバーとなる。そして、グレン・キャンベルやトミー・テデスコといったギタリスト、ベーシストのキャロル・ケイ、ドラマーのハル・ブレインやアール・パーマーをはじめ、フィル・スペクターやスナッフ・ギャレットら伝説のプロデューサーと仕事をする様になる。また、ビーチ・ボーイズ、バーズ、フランク・シナトラ、ハーブ・アルパートなど多数のアーティストのアルバムのレコーディングにも参加。その他にも、アップル・レコード所属のバッドフィンガー最大のヒット曲「デイ・アフター・デイ」でピアノを演奏し、ローリング・ストーンズの「リヴ・ウィズ・ミー」ではピアノ演奏とホーンの編曲を担当している。



最初はラジオから録音して、カセット・テープで繰り返し聴いた「タイト・ロープ」。こんなに良い曲あるのか!と驚いた記憶がある。アルバイトを始めた学生時代、自分の稼いだ現金を握りしめて秋葉原で初めて買ったレコードがイエスと「カーニー」だった。そして当時「ニュー・ミュージック・マガジン」誌に長期連載されていた「レオン・ラッセルとシェルター・ピープル」の記事を毎月読んで、そこに出てくる数々のミュージシャンを聴きあさることで、時間と場所を越えた僕の音楽の旅が始まる。いろんなアルバムで演奏している彼のピアノを聴いて「あ!レオン・ラッセルだ!」ってすぐわかるくらい癖の強い音で、それが解ることが子供心にも凄く嬉しくて、学校へ行くと仲間に自慢してた。
来日公演には出来る限り足を運んでいるけど、体調がすぐれないときは、杖をついて体をスタッフに支えられながらキーボードの前まで来て、「サンキュー」以外はまったくのMCなしで1時間演奏して終わり・・・って時もあったけど、あの歌声とキーボードの音は間違いなくレオン・ラッセルで、涙が出るほどうれしかった♪
アルバム「レオン・ライブ」は僕のライブ・アルバム好きの始まりになったようなアルバムで、今でも聴くときは座れずに立ったまま時々拳を振り上げて「イッツ・オーケー!」とか叫んでる・・・。

映画の仕事をやるきっかけになった、カメラマンラウル・クタール
音楽を聴き深めてゆくきっかけになった、レオン・ラッセル
続けての訃報は、僕にもう一度足元を見直すきっかけを与えているようです。

学校を出たあと
2年の技術勉強と見習いをしてから、当時の東宝映画のスタジオに駆け込むんだけど
その修行時代に、何本もの自主映画を共に作成し、
映画と音楽の話を夜通し続けていた、同い年の友人がいて
先日、そのご家族からも訃報が届きました。

とんでもない11月だけど、東京を離れて1年半
やっと心がギアを入れ換えて動き始めた感じがする。
といっても・・・、僕の体はガソリンではなくて、ネジを巻いて動くんだけど🎵
もうすぐ来る春待月夜に穴にこもってる暇はない。

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